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Experience tranquility.

 『OverWatch』というFPSを時々やるんですけど、FPS未経験のぼくでもそれなりに楽しく遊べる(ランクマッチは除く)カジュアル寄りのおもしろいゲームです。オムニックの反乱により勃発したオムニック・クライシス。その戦いを終結させるため結成された精鋭集団オーバーウォッチ。終戦後彼らは何者かの陰謀により犯罪者とされ組織は解体してしまうが、新たな戦乱にヒーローたちは再び立ち上がる―――。みたいなストーリーのもとでバシバシ戦います。よかったら一緒にやりましょう。PS4版ですよ。
 使用できるヒーローの多彩さが売りの一つだと思うのですが、ぼくはオムニック僧のゼニヤッタというヒーローをよく使います。オムニックというのは作中に登場する機械生命体の総称で、要するにアンドロイド、ロボットです。ロボットの僧侶って、クソカッコよくないですか。ビジュアルも超クール。身体の周りにオーブが浮いててそれを飛ばす。手でスッ…印を結んだらリロード。カッコよすぎでは?

 この「機械でできた僧侶」に通じる、大変興味深い文章を読みました。

【寄稿】ブッダの教えを学んだ人工知能が誕生したとき仏教の未来はどうなるか? | 仏教なう | 彼岸寺

 この彼岸寺なるお寺さんも非常に気になるところではあるんですが、とりあえずそれは置いといて、釈迦Alphaの話がとても面白い。僧侶を通り越して仏陀まできちゃった。内容の濃さもさることながら、実に読ませる文章です。以前ネットのどこかで見た、お悩み相談を一刀両断するゲーマーのお坊さんの話もめちゃくちゃ面白かったですけど、なんかこう、面白いですよね、お坊さん(語彙不足)。坊主ってすげえ。
 これを読むと、釈迦Alphaが決して夢物語ではない、いつか実現可能性の余地がある話であるように思われます。人工知能に仕事を取られちゃう!みたいな話は枚挙に暇がなく、ぼくなんかの事務仕事はおそらく真っ先に奪い取られる筆頭候補なんじゃないかと思うんですが、芸術などのクリエイティブな分野に関しては、やっぱり人間だよねー的な風潮も根強いと思われます。宗教も芸術同様にAIから遠い、人間領域のモノだという印象だったんですが、半導体素子はそんな勝手な想像など軽く飛び越えてしまうのかもしれません。芸術や文化ですら、映画の脚本を作るAIに触れられているように既に一部では実現しているのです。そんなことやって遊んでる暇があったらまずこの税金とか控除とかの事務処理用人工知能をさっさと作ってくれと思いますが。今一番忙しい時期です。雇用の喪失?知るか、働きたくないでござるゥー。
 “少なくとも言えるのは、私たち僧侶は「機械」になってはいけないということだ。”とありますが、今となっては「人間にしかできないこと」を探すのはけっこう大変で、ぶっちゃけ「機械になって」しまったほうがはるかに楽なんですよね。仕事にしろプライベートにしろ、定められた路線に沿って動くことはとてもストレスフリーです。何も考えずぼんやり生きるならばそれはもう機械に限りなく近いし、たとえ自分の頭でいろいろと考えていたとしても、思考すらもはや機械に太刀打ちできない、そういうこともあり得るでしょう。じゃあどうすれば人間でいられるのかと言えば、つまり“不完全”であること、なんでしょうか。そう考えれば、人間の様々な愚かエピソードも人たる証みたいに思えますね。ぼくは機械で良いですけど。
 個人的には「機械みたい」というのは悪口でもなんでもないと思っているので、何も考えずぼんやり生きることは積極的に肯定していきたいところですが、残念ながら人間社会は大変複雑なので、そうお気楽にやってもいられないのがつらい所です。
 
 別に仏教徒でもなければなんらかの宗教信者でもありませんから、ぼくは無責任な外野の立場からこの話を読んで「これゼニヤッタじゃんカッケー」などとノーテンキなことを考えているだけです。一方これを書いたひとは本職のお坊さんなので、機械の伝道者が本当に現れたとき、我々人間の坊主はどうあるべきか、という問題提起を真面目にしているわけです。もちろん今すぐどうこうということはないでしょうが、いざそれらしき存在が世に出てから考え始めるのでは遅いわけで。その姿は、まさに人間とオムニックの共存と調和を目指して戦うゼニヤッタそのものではないでしょうか。

 ぼくは以前違うところで書いたように機械フェチAIフェチなので、人工知能に仕事を取られて失業するなら本望ですが(働きたくない)、釈迦Alphaと人間のお坊さんが協力して織りなす新しい仏教もぜひ見てみたいものです。

想像力から世界を作る

 「僕の魔界を救って!」(通称僕まか!)というスマホゲームにハマっている。ハマっていると言っても2分触って数時間放置みたいなゲームなので忙しくても安心。別に忙しくないが。今やゲームといったらFF14とこれ以外全く触らなくなってしまった。
 プレイヤーは人間に魔界を奪われた没落魔王。ゴブリン1匹しか味方がいないどん底から、魔界を取り戻す戦いが始まる…という話。作戦と時間を決めて手下を送り出し、領地や捕虜を奪還してくるのをハラハラしながら待つ。帰還時間までひたすら待つ。以下繰り返し。
 説明だけだと何が面白いのかさっぱり伝わらないんだけど、自分でも何が面白いのかよくわからない。どんなに育てたユニットでも死ぬと永遠に失われる、そういうシビアな緊迫感のなかで部隊が生きて帰れる采配を手探りで模索するのがゲーム性なのだと思う。ユニットの種類も豊富なのでコレクション感覚でも楽しめる。最近FF14に実装された冒険者小隊がもっと複雑になった感じ。
 スマホ本体の設定画面のようなUI、アクション性なし、ユニットのイラスト等もなし、ペラペラ会話イベントもなし、主人公である魔王の味わい深い独白がちょこっと。非常に想像の余地があるゲームである。昨今の萌え萌えイラスト付きでいちいちフルボイスで喋るゲームに圧倒されるおじさんなので、まるで往年の個人製作ブラウザゲームのような温かみと懐かしさが心に優しい。子どもの頃部屋にあるいろんなものと会話していた身としては、こういう想像力を失わないようにしたい。えっ?独り会話遊びとか、したよね?
 
 先日初めて行くダンジョンに様子見がてら1時間半の作戦(長い時は10時間以上いくので短い方)で斥候隊を出したら、手塩にかけて育ててきた主力メンバーの一部もろともあっさり全滅してしまった。そこの土地の特性(得意属性以外は防御力低下)を甘く見たのと能力アップアイテムをケチったのが原因だった。そこまでかなりサクサクで進めていたので、油断していた。魔王であり指揮官であるぼくの傲りが、優秀な部下たちを殺したのである。すまん、ベルゼブブ(Lv.10)、ニーズヘッグ(Lv.11)他数名…。
 という風にうしなって初めて気づくなんちゃらってやつなのだが、ぶっちゃけ他のプレイヤーが売却した強いユニットを金払って雇えるし、というか主力の半分以上はそういう傭兵だし、我が魔王軍としては取り返しの利くレベルの損害である。それでもこの心を穿つ痛みは、何処から来るのか。単にぼくがセンチメンタリストだからだと言われればそれまでなのだが、たぶんこのゲームの極限までシンプルなデザインが逆に想像力を掻き立てる、みたいなところもあるのではないだろうか。このゲームではユニットの名前を自由に変えられるのであるが、今回ぼくの不徳の致すところにより殉職したユニットたちにもしなにか固有の名前でも付けてたらまじでお葬式してたところだった。テーブルトークRPGなんかはそういう想像を土台にして成り立つ遊びなのでは?やったことないけど。やってみたいけど会話しないといけないから怖い。


 些細な話なんだけど、そういう想像力をちょっと働かせることで楽しくなるものってあると思う。最近のゲームはどれもこれも美麗グラフィックでシステムも至れり尽くせりでコンフィグも懇切丁寧と来ているが、そのせいかちょっとした不具合や不満点もすぐ目に付く。むしろこうディティールをそぎ落としたものから空想する余裕があると、心穏やかに、なおかつちょっと豊かに遊べるのではないかと思うのだがどうだろうか。
 

剣の道は人の道

 ぼくは物事を長く続けるのが苦手で、今までの人生で最も長くやったのは剣道なんだけどそれは親の強制だったため、ずっと嫌々通っていた。本当に泣くほど嫌だった。泣いたしゲロも吐いた。当時通っていた道場の師範もそのへんは見抜いていたみたいで、ことあるごとに「継続は力なり」という格言を引き合いに出して(おそらく励ますつもりで)暗にやめるなよと言われていた。確かに基礎体力とか忍耐力とか得られたモノはあるんだけど、それらを帳消しにして余りある積年の苦痛と恐怖が思春期のやわらかな心に刻まれてしまった。その結果として逆説的に「継続は力にならない」という正反対の認識が深層意識に刷り込まれたがために、今現在の熱しにくく冷めやすい何も長続きしない人格が出来上がったというのは根拠のない言いがかり以外の何物でもないが何か関係していると思いたい。人のせいにしたい。ぼくちんわるくないもん。

 もちろん、件の格言が間違っているとは全然思わないし、親や師範を恨んだりもしていない。基本的には何かを長く続けることは良いことだ。良いことだと思うからこそ、長続きしない自分を反省しているのだ。ただまあ、やっぱり何事も相性というのはあって、正直言ってお互い竹の棒でぶっ叩きあうという行為と自分の性格気質には、マリアナ海溝より深い溝があると思う。当時親は身体が細く体力も無さげな(残念ながら今も変わっていないが)ぼくが少しでも健康になるようにと願って、ついでに礼儀礼節とかも学んでほしいということで剣道をやらせた、と聞いた。本人(ぼく)の了解もあったらしいが覚えてない。小学1年生のそれも人見知りでおとなしい児童が親の言うことに逆らえたわけがないと思うので、正直ほぼ強制だと思う。何度も言うが別に恨んではいない。当時は近所に神社があれば釘打ちに行きそうなくらい内心呪いまくってたんだけど、今はない。たぶん毒が全部抜けた。そういえば剣道を辞めて以降怒鳴ったりブチ切れたりした記憶がない。抜けちゃいけないものまで抜けちゃった…?

 剣道を「お互いを竹の棒でぶっ叩きあう」などと表現すると非常に怒られそうだ。剣道は野蛮なスポーツに非ず、自己鍛錬と人格形成の「道」であって、ぶっ叩きあうことが本質ではないのだから。……と教えられたんだけど、正直言っていいスか、いや、あくまで感想なんスけど、ただのスポーツっスよほぼ。
 批判するものではないと言い訳したうえでの個人の感想なんだけど、実際やってて何が重要視されてたかっていうとやっぱり「勝つこと」なんだよね。やるからには勝ちたいっていうのは至極真っ当なことなんだけど、子ども目線ではどう見ても「人格形成」より「勝利」の比重のが遥かに大きかったように思う。子どもだからしょうがない、で済むかと思ったら指導者の大人もそういうスタンスが珍しくなかった。そこには鍛錬だとか清らかな心だとかそういうのはまるでなく、とにかく何を犠牲にしても勝利が第一だった。それが悪いとは言わないが、スポーツならスポーツって言えばいいのに中途半端に高潔な事を言ってるのが、子ども心に(子どもゆえに)ものすごく卑怯で醜く見えた。勝利を追求することが清く正しい人格形成なのだ、と言われてしまうと何も言えないが、いやそういうこっちゃないと思うんだがなあ。当時自分は下手ではなかったと思うけれど、元々の身体能力で劣っていたし内心嫌々やっててそう勝てるわけもなく、それもまた否定的な心象に一役買ったのだと思う。どうせなら柔道みたいにスポーツライクに開き直ればいいのに。伝統とか色々あるのか知らんけど。
 しかし、これまた逆説的にこの「卑怯で醜く見えた」という当時の印象が、結局ぼくの人格形成に大きく影響を与えたのではないかと思われる。「勝ちにこだわる」ことと「卑怯で醜い」ということが線で繋がってしまって、結果的に今のぼくは物事の勝ち負けを決めることに嫌悪感を抱くようになってしまった。付随して闘争心や向上心の減退が発生し様々な面で不利益が生じている。…というのは根拠のない言いがかり以外の何物でもないのだろうか、やっぱり。
 
 しつこく繰り返すけど、親や剣道を糾弾したいわけじゃない。当時の親はマジでムカついたし剣道経験はトータルで見てプラマイゼロむしろマイだと思ってるけど、それはそれこれはこれだ。親には感謝しているし剣道をやっていて素晴らしい人格者の方もたくさんおられると思う。
 正直こんな自己分析なんて屁のツッパリにもならない。ぼくは心理学の専門家じゃないし。ただ、自分の(特にあまり好ましくない)性質が誰かのせいで生まれたんだと思うのはとても楽なんだよね。だってぼくわるくないもーんって。
 自分のことなので上記の剣道に関する分析は当たらずとも遠からずなんじゃないかとは思うけれど、人のせいにしたところで何にもならない。かと言って自分を責めても苦しいだけで良いことはない。つまり、誰かのせい自分のせいなどと言った責任の擦り付け合いは何も生まないのだ。大切なのは今あるものを受け入れること、これからどうするかを考えることなのである。

 そう、争いはやめよう。他人に対しても自分に対しても。平和、イチバン。俺、オ前、ナカヨシ。勝チ負ケ、キメル、ヨクナイ。カチ、マケ…オゴ…ウググ…(幼少期のトラウマから抜け出せない例)
 

自分へのご褒美

 なんのために生まれてなんのために生きるのか、わからないまま終わる、そんなのは嫌だ。ほんとうに?そんなに嫌か?

 いつだったか、研修かなにかで「あなたの今までの人生を折れ線グラフで表してみましょう」みたいな課題をやらされた。趣旨はわからんでもないけれども、面倒なことをさせるなあと思った。だいたいこういうのは基本的に全てメンドクサイので何をやらされても文句出るんだけど。
 人生どの時期が調子よく上向いているか、下り坂なのか、停滞しているのか、現在と比べてあの頃は良かったのか悪かったのか。それを分析することでどうすれば今後"より良い"人生を送れるかという指針を見出すことができる。できるのか?できるのかなあ。それでいうと一生学生やってるのが最高の人生になっちゃうんだがいいのか。
 
 最近ちょっと意識が高まっている(当社比)。今年はお世辞にも良い年ではなかったけれど、ゴタゴタがある程度落ち着いてちょっと余裕が出てきたのかもしれない。せっかく暇なんだしゲームばっかりしてないで有意義なこと(有意義とは?)をすべきでは、という気持ちが中途半端にある。実際はゲームしかしてない。このままだと口だけの意識高い系になってしまう。嫌だそんなの。基本的に嫌なことから逃げて低きに流れるタイプの人間なので別にいいやんけとも思うが、やっぱりどうにかしないと、という気持ちが捨てきれないのは、年齢のせいだろうか。たぶん、もうギリだと思う。歳が。

 目標を立てよう。一定期間ごとに課題と報酬を与えることで人間は継続して物事に取り組むということをネトゲから学んだのだ。ここでの報酬は自分で用意でき、もらえると嬉しいがコストのあまりかからないものがいい。

・月1冊以上本を読む
 →達成報酬:1冊につき課金インゲームアイテム1点
・週1日以上ランニングをするor4日以上ウォーキングをする
 →達成報酬:からあげクン
・週4日以上筋トレをする
 →達成報酬:からあげクンチーズ
 
 書いてて悲しくなってきた。しょぼい。だって思いつかないんだもん。だいたいなんだより良い人生って。何がどうなったら良い人生で何がどうなってしまったら悪い人生なんだ。
 目先の目標を達成しても何の意味があるのか、という点が不明瞭だからいけない。目標に意味を持たせるために、より高次の目標が必要だ。小さな目標の達成を積み重ねることが、自動的により大きな目標の達成に貢献できるような課題設計が望ましい。まずは大きな目標を決めよう。

・結婚する
 →えー、無理
・彼女を作る
 →えー、無理ぽい
・お金持ちになる
 →えー、無理だと思う
・海賊王になる
 →えー、無理かも
・新世界の神になる
 →えー、たぶん無理かなあ

 どうでもよくなってきた。なにがしたいんだろう。海賊王よりは石油王のほうがいいかなあ。
 結局、「良い人生」の定義が全く定まっていないことが諸悪の根源だと思う。一生懸命がむしゃらに毎日生きて、最期死ぬときになって「嗚呼良い人生だったなあ」みたいなド根性も悪くないとは思うが、そんな一生懸命な人間ならこんなことになっていない。怠惰で自堕落な人間が、それでも少しは良い方向に進もうという足掻きが、目標だの報酬だのというルール設定なのだから。そうやって心のどこかでは「このままではだめなんじゃないか」と思いながらも、一方では現状に満足してやる気を出さないという、アンビバレントが生じている。誰のせいとか言うつもりはないし、敢えて言うなら自分のせいだけど仮に困るとしても自分だけなので、腰が重い。
 というわけで少し早いけど来年の抱負は「石油王になる」です。今年はもう諦めた。手始めにからあげクンをたくさん食べます。宜しくお願いします。
 

ぼくからみたあなた~南條愛乃Live Tour~

 私事ですが、去る9月4日より5会場に渡って行われました「南條愛乃Live Tour 2016"N"」に参加させて頂き、僭越ながら優勝致しましたのでこの場を借りてご報告申し上げますと共に、南條愛乃様並びに関係各位に心より御礼申し上げます。

 恐るべきことに大阪神奈川宮城と3会場のチケットが当選してしまい、ただでさえ逼迫している当方の財政はもはや破綻一歩手前に追い込まれました。思えば、ここ数年県外へ出るのはほとんどが南條愛乃さんのためであり、もはやこれは遠距離恋愛と言ってもよいのではないでしょうか。南條さんから会いに来てくれたことは一度もありません。あれ?
 ツアー日程がすべて終了するまで演出やセトリの内容は内緒にするという愛乃お姉ちゃんとのお約束だったので、ようやく思いの丈を述べることができ嬉しく思います。実は毎回感想を書き溜めてたんですけど全部つなげると長大なキモイなにかが出来上がってしまい、ちょっと頭冷やして読み返すとキモかったので消しました。「優勝」「良さみが深い」などと近年のオタクの語彙力低下を嘆かわしく思っていたのですが、心のままに言葉を紡いだ結果残るのは気色悪さだけだという自省によるものかもしれません。どちらにしろキモいですか?そうですか。

 今回のツアーは2ndアルバム『Nのハコ』を引っ提げてのツアーと言うことで、当然その収録曲が多く歌われたわけですが、このアルバムは「きみからみたわたし」というコンセプトのもと制作されています。南條さんが今まで出会った人々が歌詞を提供し、「南條愛乃とはどういう人物か」をそれぞれの視点から綴っているというもの。各会場でも来場者アンケートが実施され「わたしからみた南條愛乃」とはなんなのか、我々ファンも今一度考える機会になりました。
 当方としましては「我が女神」と回答したいところなのですが、まああの、真面目な話をすると南條愛乃さんという方は見かけよりかなり強かなひとだと考えております。
 南條さんと言えば「ゲーマー」「ひきこもり」「オタク」「ズボラ」みたいな(失礼)ゆる~いイメージが先行してますが、現実として厳しい業界で10年もキャリアを積み、今も第一線で活躍している人間が、ただのゆるいふわふわしたひきこもりであるわけがない。『idc』も言ってます。「君たちが夢見てるマシュマロガールは雲の上」と。あの良さみの深いダンスはどうみてもマシュマロガールでしたけどね。もちろん実際にそういったオタクな性格ではあったとしても、あの場所に立つためには運や才能だけではない色々なものが必要なわけで、ぼくのような路傍のうんこには想像もつかない幾多の辛酸を舐めて、それらを乗り越えてきたに違いないのです。それは別に南條さんだけに限らず多くの活躍している人々も同じことではありますが、あまりそういった苦労を見せないところというか、素の姿が滲み出る自然体なところが好きです。
 もちろんぼくごときが南條愛乃の何を知っているかといえば、客向けの姿しか知らないので結局これもまた全部「勝手な妄想」と言えばその通りなんですけど、アクターとファンの関係ってそういうものでしょう?妄想と現実をごっちゃにするひとが稀によくいることは問題かもしれませんが、本来ファンは消費者でアクターは商品なんですよ。それを踏まえた上で一人の人間として尊敬し応援することが真摯なファンの態度だと思うのですが。

 3会場参加したと書きましたが、すべて1階席(仙台に至っては7列目)という神席を手にしてしまい、これがFC先行応募の力なのか今までの悪運の回収なのかわかりませんが我が人生に一片の悔いなし。ライブ毎回言うてるでコレ。
 全体の印象として、ライブというよりじっくり聴かせるコンサートに方向性を若干振ってる気がしました。照明落としてサイリウム消して座って聴いてねっていう演出はよかったです。そもそもそういうしっとり曲が多いんですけど。もちろんアゲアゲな曲ではアゲアゲでハッスルでした。絶対そういうタイプじゃなさそうなのにヘイ!かもん!ってやってるところが可愛くていいですよね。
 アルバムの初回限定盤についてくるカバーアルバムがあるんですけど、その5曲から会場ごとに1曲ずつ歌ってくださいました。原曲をフルで聴いたことあるのは『全力少年』だけだったんですけど、大阪で聴けました。よかった。今回たまたま奮発して追っかけしてしまったんですが、こういうちょっとした会場プレミアムがあると、たとえ1会場だけの参加だとしてもすこし嬉しくなりますよね。来年からは行けても1回だけにします。死ぬので。

 正直金は無くなるし移動はしんどいしゲームやりたいし、行く直前は毎回やっぱ行くのやめたいって思ってましたが、結果、行ってよかったです。アホみたいな強行軍の割に疲れが残ることもなかったし。惜しむらくは、財政難によりあちこちケチったため折角普段行けない土地に行ったのにライブ以外ほとんど何もしていないのが勿体なかったかもしれないです。近場ならまあライブだけでササッと帰ってもいいんですけど。次は是非金沢にも来て欲しい。地元は、まあ、諦めるけど。
 基本的に私生活が空虚なので、こういう心を充足させられる機会は大切にしていきたいです。できればもう少し身の丈に合った身近な手段が欲しい所ではありますが。また来年、南条愛乃さんに会える日を楽しみにしています。

聲の形、感想の形

 映画『聲の形』観た。『君の名は。』と似たような系統だと勝手に思い込んでたので観る気なかったんだけど、良い作品だった。一緒に観た友人曰く『君の名は。』がワンピースだとしたら『聲の形』はハンターハンターだそう。『君の名は。』を観てないのでこの喩えがどの程度的外れなのかはわからない。外れてる前提かよ失礼な。

 異質なもの理解できないものに対して攻撃的になるというのは、ありがちな話だ。いじめはよくないが、世界には厳然と存在していて、存在しているという事実はどうやっても消えない。そういう悪意に晒されて、極限まで自己肯定感を喪失し死を考えるご両人が、クソみてえな世界かもしれないけどでも生きるっきゃねえと気付く、あるいは覚悟する、そういう物語だと思った。映像としてはとても綺麗なラストを迎えているけれども、ビジュアルの割にそんなに明るいエンディングではないと感じた。めっちゃしんどい、きつい、でもそれでも、っていうそういうタフな話だった。

 はじめは西宮さんと結婚したいみたいな気の抜けた感想しかなかったんだけど、どうやらこれを「感動ポルノ」と見て批判する向きがあるらしい。ぼくは名作だとは思ったけれど別に感動はしなかったので、そういう捉え方があるということに恥ずかしながら思い至らなかった。
 一体どの辺が感動ポルノなのか果たして本当に感動ポルノなのかという話はあまりうまく言えない気がするので他に譲るけれども、どう見てもそうではなかろうというのが、率直な感想である。別にあれは恋愛の話でもなければ障碍の話でもない。必ずしも石田は救われていないし、西宮さんは恋だけしてるわけではない。いじめっ子が救われる酷い話だ!とか美少女障碍者がいじめらっ子に恋しちゃってきもい!とか言うてる方は多分気分悪くて途中寝てたんだと思う。まあしんどい映画だったことは同意する。
 たとえば、西宮さんが美少女じゃなかったとしても、あの話は何も変わらない。ぼくたちから見れば美少女であるけれども、石田やその他から見れば別に美少女ではないかもしれない。少なくとも劇中で美少女扱いされてはいない。なぜ美少女に描かれているか。不細工をずっと見てたら疲れるだろうが。冗談です。
 西宮さんは石田に好意を抱いていたようだけれども、本当にあれが恋愛的な意味での好きだったのか怪しいところだと思う。十代の、それも他者とのコミュニケーションに失敗してきた人間が抱く感情の誤謬なんじゃないかと疑っている。そうではなく純粋な好意だったとしても、作中で彼らがそういう関係になる描写はなく、一緒に出掛けたり文化祭に行ったりするのも決してそういう意味ではなかった。その後二人がそういう関係になるかどうかは二人の自由意思であって、同情や贖罪が入り込むものではない。その自由を手にしたということ自体に意味があるのではないか。
 障碍を題材にとってはいるけれども、いじめやディスコミュニケーションは健常者でもしょっちゅう起こり得るのであって、障碍者特有の事象ではない。あの作品が描きたかったことが「障碍者の苦悩」などではないことは明らかだ。それを「障碍者を道具にしている」などと言われると、まあ閉口するしかないんだけど、そこにわざわざ突っかかること自体、一種の差別ではないのだろうか。それならフィクションで描かれるありとあらゆるコンプレックスや人間の欠陥に対して同様に突っ込んで欲しい。

 個人的には、泣き叫んだり土下座したり殴り合ったりとかいった強烈な感情の発露に恐怖感というか相容れないものを感じたりもしたけれども、それはあくまで個人の感想の域を出ておらず、大声で触れ回るようなものではない。西宮さんや石田に嫌悪や憎悪を抱くのもそれと同レベルの話で、ようするに「あなたの感想でしょ」という話でしかない。別にどんな感想を持つのも勝手だが、それと作品の是非を直結させ「感動ポルノ」などという明らかな誹謗に結び付けるのはおかしいでしょう。それではキモいと思ったから悪口を浴びせかけたのと何ら変わらず、彼らがまさに糾弾するところの「いじめ」と一体何が違うのだろうか。

この中にひとり嘘つきがいます

 東京都民ではないのでどうでもいいんですけど、このあいだ朝テレビで盛り土をするべきだっていう話を見たその日のうちに、ネットで盛り土しなくてもだいじょうぶだよ(だから大騒ぎする都知事は阿呆だよ)という話を読んでしまって、なるほどと思いました。

 

 「情報リテラシー」という単語自体はそこそこ人口に膾炙した感はあると思うのですが、じゃあリテラシーってなんぞ、となるとやはりまだ啓蒙不足と言いますか、そもそもリテラリーの語義は読み書きする力から転じて情報を活用する力とかそんな感じなので、リテラシーがないひとがリテラシーという単語だけを知っても何の意味もなく、服を買いに行くための服がない状態。リテラシーを身に付ける為のリテラシーがない。まあひとのこと言えないですけど。
 なんとか市場の盛り土問題に関しては、「盛り土は必要ないよ」派としてぼくが拝見したのはやまもといちろう氏(および引用されているどこぞのツイッターのひと)でして、たまにブログ読む限りでは割と真っ当な感覚をお持ちに見えたんですけど、一部ネットでは結構ボロクソ叩かれてる人物らしく、なるほどというきもちです。
 テレビでさも真実のように語られていたことがネット上の告発によって大嘘だとバレる面白話は昨今枚挙に暇がなく、一定の疑いを持って見てるんですけど、ではネットは公明正大かと言えば全然そんなことはなく、むしろ玉石混交の極みといったところだと思います。なので、盛り土しろと言うテレビ(および都議会議員)、盛り土いらんと言うやまもと氏、やまもと嘘つくな死ねと言う無名のネット民、どれを信じたらいいのでしょう。個人的な印象としては、結論「安全性には問題なし、役所の報連相に問題あり&マスコミが勉強不足」みたいなところかなと思うんですけど、どうなんでしょうね。最も確実な方法は、自分自身が建築だか設計だかその系統の専門知識を学ぶことでしょう。情報リテラシーというか科学リテラシーですね。やっぱり勉強は大事ですよ。残念ながら東京都民でもなければなんとか市場の利用者でもないのでそこまでして真実を追い求める情熱はなく、なるほどとコメントするより他なにもできないんですけど。

 ネットは信用ならんと書きましたが、ネットがいい仕事したケースとしては、最近だとPCデポの件がありましたね。まだ終わってないですかね。基本的に炎上案件を彼岸から眺めるの大好きなので、発端の記事や余罪諸々の話など一通り読んだんですけど、大変面白かったです(笑いごとではない)。あれもまあ、平たく言えばよくわかってないひとが商魂たくましい手厚いサービスにカモられたっていう話ですけど、初期の頃は「わかってないのが悪い」「情弱乙」的意見もあったようで、ところが結局会社側が完膚なきまでにまっくろくろすけだったっぽいことがわかって結果的に情弱とかそういうレベルじゃねーよって感じです。たとえこれでPCデポが叩き潰されたとしても、騙される人間が存在する限り騙す人間は消えないわけで、いよいよ食うか食われるかバトルロワイヤルの様相ではないでしょうか。

 

 このバトルロイヤルは要するに「どの情報が正しいか」を自分で判断しなきゃいけないんですけど、それはすごく難しくて、実際ぼくらがやってるのは「正しいことを言っている人物は誰か」を選ぶことなんですよね。それも十分難しいんですけど。正しい、はちょっと語弊があるかもしれないですね、信頼できる、くらいにしますか。
 やはり一番強いのは自分で勉強することです。ペンは剣より強し、とまでは言いませんけど、せいぜい我々が日常で見聞きする情報程度なら、勉強すればだいたい真偽の見分けはつくんじゃないでしょうか。勉強なんか意味ねーよって愚図るお子たちには、勉強が足りなかったせいで恥をかいたり損したりする大人をみせつけるがよろしいでしょう。勉強って、学校の試験じゃないぞ。知識を得ることだぞ。