やる気がないので帰ります

こういうのを読みました。

 

blog.tinect.jp

3行でまとめると
・強制や丁寧すぎる指導では人は成長しない
自主性を促し疑問を持つ力をつけさせるのが最良の師
・『BAMBOO BLADE』はおもしろい

ということらしいです。
この記事自体は別に剣道の話ではないんですが、ぼくが剣道には並々ならぬ因縁があることは既にご存じの方も多いと思います。今まで2回だけ、マジ顔で死にたいと思ったことがあるんですが、そのうちの1回が剣道によるものでした。剣道場から帰宅して、家族が家に入った後もひとり車から降りずに泣き続けていた小5だか小6の夜。別にその日何があったわけではなくいつも通りの稽古だったんですが、とにかく毎日嫌で嫌で、ついに何がが切れてしまったんでしょうね。辞めたいと言っても辞めさせてもらえず、あれこそまさに強制以外の何物でもなく、なるほどぼくが人として微塵も成長できなかったのも納得です。すみません、責任転嫁しました。

剣道はどうでもいいとして、指導方法として自主性を重んじることが有効なのは理屈としても実感としても理解できます。その例として挙げられているのが『BAMBOO BLADE』の顧問や植芝盛平なわけです。漫画はフィクションですが、植芝さんは実際に偉大な実績を残しているので、やはり効果は実証されていると言っていいでしょう。
ただ、自主性の欠片もないマンことぼくはどうしても引っ掛かりを覚えてしまいました。別にこの話にケチを付けたいとか否定したいとかではないんですが、ちょっと屁理屈を思いついてしまって。もっと根本からダメな人間(たとえばぼく)に対して、その方法論は効くのだろうかと。何かやり方があるのか、それともダメな奴はどんな師についてもダメなままなのか。

“自分で疑問を作り、それに対して自主的に試行錯誤できるようになると人は物事に熱中できるようになる。こうなれて初めて人は師を越えて成長できるようになる。”

と書いてあります。だとすれば何事もまず疑問が先に立つものであり、成長の根本は本人が疑問を持てるか否かにかかってきます。その疑問を持たせることが上手い人物として合気道植芝盛平が出てくるわけですが、紹介されている彼のやり方を見る限り、ぼくは「そんなんで自主的になるか?」と思いました。少なくともぼくはおそらくならない。いや、実際は弟子が何人も大成しているんですが。
ここでの違和感の原因はおそらく、「元々やる気のある人々をどこまで伸ばせるか」という話であるのに、ぼくは「やる気をどう伸ばすか」と読み違えていたからだと思われます。植芝道場(多分そんな名前ではない)の門下生は前提として自ら進んで合気道を志すやる気満々な人々であるわけで、ハナからやる気のない奴は辞めてるんですよね。ぼくはやる気ないのに辞められなかったんですけど。あ、だから勘違いしたのかなるほどー。

無職時代、小遣い稼ぎに半年ほど塾講師をしてまして、固定の担当としては受験期の中学3年生を3人教えていました。自分でいうのもアレなんですが教えるのは割と得意で、ここでいう疑問を持たせて自主性を云々みたいなのも素人なりに考えて教えていたつもりです。
3人のうち2人はまあ普通の子という印象でしたが、彼らなりに一生懸命に聞いてくれて、そこそこ良い学校に第一志望で合格しました。本人の理解力や思考力も大事ですが、ちゃんとレスポンスしてくれるのがよかった。ただ、もう1人の子がやっかいで、初めて会った時点(中3夏)でbe動詞も怪しいくらいで、大変苦労しました。結果から言うと偏差値40くらいの公立に落ちて私立に行ったそうです。都会と違って田舎では私立高校=誰でも入れる滑り止め扱いなのです。
その子は、なんていうか地頭の差も確かにあったんですが、それよりもなんか常に眠そうで反応も薄くてやる気が感じられないのがどうしようもなくて。ぼく自身も偉そうなことが言えるほど勉強が好きなわけじゃないので、どう声を掛けたらいいものかと悩みました。まあ、週に3時間しか顔を見ない一介のアルバイトにどうこうできるならとっくに解決してるって話なんですが。

「やる気のない奴にどうやる気を出させるか」っていうのは教育の場ではどうやって対処しているんでしょうか。剣道やら合気道やらは、そもそもやる気が無ければやらなくていいモノなので、そういう問題は発生しないはずです。最近、部活動で「やる気が無いなら帰れ」系の指導が問題になったりしてますが。あれも大概クソですよね。元々やる気がある子ならあれで奮起するんでしょうかね。部活も(建前は)任意なのでやる気が出ないならやらなくていいとぼくは思うんですが、勉強はやる気が無くてもやらなくちゃいけない、のでしょうか。一応そういうことになってます。
それとも、我々が固定観念にとらわれているだけで、勉強すらもやる気が無ければやらなくていいものなんでしょうか。学校の勉強を一切せず大成した人物もいるにはいます。なにもかも本人の自主に任せ何をすべきか何を為すべきか決めさせるのが健全な社会形態なんでしょうか。

何が言いたいのかと言うと、どんなことでも根源に本人の内側から湧き出る「何か」があって初めて、何事かを為し、何事かを成せるとするなら、それって指導や教育ではどうしようもないのではないか。ぼくはその「何か」を便宜的にやる気と呼んでますけど、熱意とか意欲とか言い換えてもまあいいでしょう。とにかく芯のある何かです。少なくとも、師匠や教師や先達にできることはまず、やる気という器がある前提で、そこに苗を植え大きく育てることです。とりあえずそれをより大きく育てられるのが良い教師と言ってよいでしょう。器の種類は人によって様々でしょうから、合気道や剣道にそれがなくとも、悲観することはない。勉強にないと今のご時世非常に苦労すると思いますが、それでもワンチャン道はあるかもしれない。ですが、じゃあ一体何の器を持っているのでしょうね。
be動詞を知らなかった彼も、何か他にそのやる気という器を持っているんでしょうか。それはどうやって見つけるんでしょうか?持って生まれたものなのか、あとから増やすこともできるのか?どうやって?もしひとつもなかったら?
それはきっと誰も教えてはくれないのでしょう。